Vol.25 高橋 安子 さん

Vol.25 高橋 安子 さん

今回のインタビューは栃原にお住まいの高橋 安子(たかはし やすこ)さん。

JR栃原駅からすぐ、川添神社の横におしゃれな洋館が建っています。ここは高橋内科という病院です。その少し奥、鉄骨コンクリート造りのレトロな白い建物(高橋内科旧館)がひっそりと控えています。ここが、今回のインタビュイー、高橋安子さんのアトリエ兼お住まいです。さらに奥には、数寄屋造りの茶室も見えます。

高橋内科

【時間のあるとき、なんて】

元「診察室」に続く静かな廊下には、庭木や草木を描いた数々の日本画が飾られています。これは、すべて安子さんが描かれたもの。初代院長の奥様として、絵を描く余裕のある優雅な暮らしが想像されましたが、それは誤解であることがわかりました。

高橋内科旧館に展示されている高橋さんの作品

戦時中に女学校時代を送った安子さんにとって、「時間があったら、なんて言っていたら何もできない」ということが身に染みていました。「女学生時代は1、2時間の勉強以外は勤労奉仕であり、開墾や炭焼き等の作業でした。」

高橋内科旧館に展示されている高橋さんの作品

結婚後、夫の亘(わたる)さんを支えて仕事を始めると、今なら看護師、医療事務、薬剤師と手分けする仕事をすべて二人でこなすために、多忙を極めました。ここに開院したのは、安子さんのお父様が材木商で、「造船のための材木を木曽から運ぶ貨物列車の終点が「栃原駅」だった」ご縁によるもの。見知らぬ場所でしたが、日に百人の患者さんが訪れることもありました。当時資格を持つ人もそうおらず、安子さんは勤務するスタッフを看護師に育てたそうです。入院患者の厨房仕事、子育ても安子さんの肩にかかり、眠れない夜もしばしばありました。

  往診の ベルが身を打つ 霜の夜
  凍る夜 目と目で語り 患者看る

そんな中でも、ご主人は「医者は、医者だけしていればいいというものではない」とのお考えでしたので、ご夫婦で茶道(表千家)を趣味にされました。また開院10年後に入院の受け入れを止めたことで、少し手が空いた安子さんは、三瀬谷中学校(当時)の教室で始まった「成人学級」の絵画教室に入会し、休むことなく学びました。

※成人学級…1947年に戦後の大人にも学びの機会をと始まった制度。大台町でも書道・俳句・絵画・水墨画などの講座が開設された。

思い出のアルバム

【日本画のこと】

安子さんが日本画を始められたのも成人学級でした。はじめは乗り気になれずにいた安子さんに美術の先生が「日本画に向いている」と励まし手ほどきしてくれたことで、興味が深まり、また日本画家の奥山芳泉氏に師事したことで、後に松阪市展 市長賞や県展に入選を重ねるほど熱心に取り組みを続けてこられました。

高橋内科旧館

制作はいつも仕事を終えた夜。アトリエはダイニングキッチンでした。5分の時間も無駄にすまいと、食事を作りながら食器棚に立てかけたキャンバスを眺め、夜、夕飯の片づけが終わると食卓の上を画卓に早変わりさせたそうです。

高橋内科旧館に展示されている高橋さんの作品

絵の題材はもっぱら身近な木や花。寒さの残る山に凛凛と光を放つ老梅。嵐に打たれる花壇。今は無き丹生の大銀杏の壮観。育てた蘭の咲き誇る様子。安子さんは、季節の花に人生折々の想いを乗せて、岩絵の具と膠(にかわ)で色彩を紡いできました。成人教室がなくなった際は、日進公民館で美術のクラスを開き、十名ほどの参加者に指導もされて、近年まで活動を続けられたそうです。

  秋の陽を 絵皿にためて 膠溶

平成13年、紫陽花(あじさい)の遠景にお孫さんが踏切の前で傘をさす様子を描いた「梅雨の日」がジャパンアート社の目に留まり、美術総合誌ARTMIND(アートマインド)に数回にわたり9作品が掲載されました。これを弾みに、ご自身の画集「凌霄花(のうぜんかずら)」も作られています。

高橋さんの画集

「凌霄花」は安子さんが市長賞を受けた作品のタイトルでもあります。この作品は松阪市文化財センター(はにわ館)開館記念の展示会に飾られ、現在は高橋内科の玄関で訪れる人を暖かく迎え入れています。

高橋内科の玄関に飾られた高橋さんの作品「凌霄花(のうぜんかずら)」

【茶室のこと】

昭和53年に建てられたという「茶室」は、使われた木や造作に随所にこだわりが見られる美しく居心地のよい場所です。現在はあまり使われていないそうですが、「年を取ったら雨戸を開けるのもなかなか大変で」と案内していただいた日は、秋の日差しを広縁が反射して部屋全体が赤々と陽を灯しているようでした。

高橋さんの茶室

特筆すべきは入口付近の押入に描かれた野薊(のあざみ)の襖絵。これは安子さんが「まだ岩絵の具の使い方もわからないで描いたのよ。でも本当の描き方を知ったら(襖絵は)怖くて描けなくなってしまった。心が動く時期があるのね。それを逃してはいけない。」という思い出。下絵も描かず勢い描いたこの絵が後に、師事する奥山氏との出会いを導き、奥の茶室の襖絵を描いていただくきっかけになったそうです。

奥山芳泉氏が描いた襖絵

ご主人がご存命の間は、ここに医師会の方々や知人をお招きして、野点(のだて)や茶会を催したそう。庭に真っ赤な野点傘を差し、毛氈(もうせん)を敷いた椅子を据え、着物姿の来客が談笑する様子を写真で見せていただきました。そんな時は、ご主人がお点前を披露し、安子さんが山菜や山で収穫した食材で懐石料理を作り振舞ったそうです。「特別なものはないけれど、お客さんが毎年楽しみにしてくださった」といいます。今は「建物は使わなきゃダメになる」と、何らかの形で来客があることを望まれているそうです。

【想いを継いで】

招く、と言えば「奥伊勢フォレストピア」は安子さんにとって思い入れのある場所なのだとか。安子さんは、ご主人が緊急入院した同じ日に、同じ病院に入院した元宮川村長である山本泰助さん(「三重額縁」)にお会いします。額装をあつらえてくれる友人として、また産業医として関わりのあった安子さんが山本さんを見舞うと、ご自分の病状よりも「紅葉をたくさん植えたから10年後には見事になるよ」と、町のこれからに思いを馳せていらっしゃったのだそうです。フォレストピアも山本さんが手塩にかけた事業なのだとか。

その日お話できたのを最後に、山本さんは面会謝絶に。訃報を受け取った安子さんは、「最後の言葉を受け取った一般人」として、まちへの想いが自分に託されているように感じてきました。それで2年前、全国にいる女学校時代の友人を招き、フォレストピアの事務所にある山本さんのお写真とともに、「90歳の同窓会」を行ったそうです。また、茶室やご自分の描き溜めてきたものを町の文化的なことに役立てられたら、と思うのだそうです。

【取材班のあとがき】

取材時の安子さんは91歳。ときどき少女のように肩をすくめていたずらな笑顔をみせ「エプロンは自分で花を描いたんですよ」「茶室に使った木を全部引き出しに取ってあるの。」「茶室の入口から見ると、病院の屋根と川添神社の御神木が一直線に見えるのよ!」とたくさんの秘密を教えてくださいました。お仕事もライフワークも手を抜かず取り組んでこられた安子さんは今、次世代に託す「終活」にお忙しいのだとも。そんな姿勢に触れて改めて日々のあり方を考えさせられた取材班でした。

茶室に使われた材の数々

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