Vol.22 野呂 剛史 さん

Vol.22 野呂 剛史 さん

今回のインタビューは、下菅にお住いの野呂 剛史(のろ たけし)さん。

野呂さんは「大台陸上クラブ」で代表の木下 真一(きのした しんいち)さんと共にコーチを務める。同クラブは小学生から大人まで90名近くが在籍する今や町内最大の自主的なスポーツ団体だ。だが、実はお二人、当初は陸上指導の経験がまったくなかったという。そんな彼らに指導者としての思いや、地方でスポーツをすることなどについてお聞きした。

【陸上クラブのはじまり】

雨の日の「大台陸上」は体育館で行われる。「それじゃ、はじめよか」と木下コーチが穏やかな声をかけると、波が広がるように静かに練習が始まった。一見遊びのようにも見えるオリジナルメニューが展開される中、指導のバトンが木下コーチから野呂コーチに移った途端、子どもたちが「コワッ」「来るぞ」「油断するな」と笑って身構える。歓声を上げる小学1年生の横で、さっきまで大会の賞状を手に記念撮影していた中学生たちも一緒に参加している。これが、全国大会にも出場するという「陸上」クラブだろうか。

大台陸上クラブの活動風景

さかのぼること7年程前、町職員でもある木下さんは、仕事で「市町村対抗駅伝」に出場する選手を募る立場にあった。だが、町には「指導者もおらへん、選手もおらへん」状況に頭を悩ませていた。当時の大台町には、陸上に携わる人がなく、中学校に陸上部も無い。駅伝大会などの際には、「足の速そうな子」に声をかけるなどして、即席チームで参加。当然、成績は低迷していた。

そんな状況をどうにかしたいと、同じ職員の野呂さんと競技経験があり、当初の活動をサポートしてくれた林 教介さんに声をかけたのが事の始まり。平成27年にスタートした。野呂さんは、陸上経験者ではあったが指導経験はなく、ご自分では「たいしたことのない選手」だったという。ただ「駅伝選手はほぼゼロから育てなければいけない」という思いがあり、クラブ開始と同時に駅伝コーチも引き受けた。

クラブ自体に気負いはなく、「家におる子らを外にひっぱり出そうや」というノリで練習を始めた。そして、子どもたちにとっていい経験になるだろうと、一度大会に出てみることにした。すると、驚いたことに何人も決勝戦に残っていた。その子たちが5年生になると、今度は100mで全国大会にも出てしまった。創部3年目の快挙だった。「それで、味を占めたんですね。」と、野呂さん。いろいろ工夫を始めた。

「でもね、もともと僕らの性分が厳しくなかった。だから時々ニュースで問題視されるような、(結果至上主義は)嫌やね、と。楽しくいこうや、っていうのがすごくあって。」目指すところはどこかという思いが頭をよぎる。

そんな時、クラブの中に「どうしたらええんや」と対応に迷うほど個性的な学年があった。ある子は話を聞かず、練習にも身が入らず、ふらふらしていた。でも話を聞いてみると、彼なりの世界観がある。それで、彼の世界に自分から寄ってみた。すると、その子が「コーチとたくさん話をした」と親に報告し、おばあちゃんと連携がとれ、いつしか子ども本人から「大会に出たい」という前向きな言葉が出てきた。「なるほどな」と。

子どもにとって安心していられる場所であることの重要性。寄り添うことで起きた変化が面白かった。そこから、「いわゆる運動なんか嫌いで、何もしたくない、という子どもも喜んで受け入れる」クラブの雰囲気が生まれた。

走る事がかなり苦手だったある子は、6年生になって突然50m7秒台を記録した。その子に「野呂さんたちのおかげで、こんなに足が速くなって、運動が好きになった」と感謝された。子どもがスポーツを通して自信をつけていく。「スポーツをするとは、そういうことだよな」と身に染みた。そんな姿を目の当たりにして、自分たちは指導者として「どうやって速い子を発掘するか」よりも、「個々の人となりに向き合って、できることを手伝おう」と考えるようになった。

大台陸上クラブ

気が付けば、部員は90名近くなり、大台中学校、三瀬谷小学校、日進小学校、と場所を分けて開催しても50人近くが参加する。町外からの参加もあり、ここを選んで来てくれている、という。

【指導者として】

野呂さん自身の陸上デビューは、高校時代。当時、宮川高校にいた陸上部の先生が「簿記とパソコンと陸上」の3本柱を立てて徹底的に教えてくださったという。小・中と運動嫌いだったが、先生は高校の中でも燻っているような子たちを集めて熱心に指導された。大会の結果よりも、将来に活かすための技術向上にいかに取り組むか、その姿勢をキツく評価していただいた。認めて、信じてくれた。その経験が今も生きている。

陸上クラブを始めるにあたって、指導者の視点を学ぶため恩師を訪ねた。野呂さんが指導を受けた時代と指導法や理論が全く変わっていた。そこで学んだことを持ち帰って指導を始めたが、ほどなく、小学生に走りの理論・理屈をぶつけても仕方がないと気付く。

大台陸上クラブの活動風景

「やっぱり、遊びの中やよな」と。

子どもには、理論・理屈を「何かに置き換えて」やってみる方がいい。「脚をこう動かしたい」なら、「トランポリンでいいんちゃう?」とか。「投げるのが上手くなりたい」なら、「的を作って投げてみよう」とか。全部が正しいとは言えず、子どもたちには「お前ら、実験台や(笑)」と言いながら、たくさん失敗し、たくさん試行錯誤を重ねた。おかげで今、独自のノウハウができつつある、という。

今は日本陸上競技連盟公認コーチの資格をお持ちだが、しっかり陸上をやってきた人間が指導者になって始めたわけではないから、このようなプロセスを辿ったと振り返る。強豪校には秘伝のメニューがあり、それをこなすべきと強いるのだろう。野呂さんも最初は怒鳴って言うこときかせなくてはと思っていた。でも、今はそれになんの意味があるのかと思う。

試合で他チームを見ていると、集合に少しでも遅れた選手や失敗した選手を、指導者が罵倒する場面に出くわす。「礼を尽くせ」「気合が足りん」、大台陸上に「まったくなっていない」と苦言をいただくことも。その度に「自分たちが “あっちの世界の人”でなくて良かった」とホッとする。

上の言う「礼儀」を鵜呑みにするな、間違っていることもあるんだからちゃんとコミュニケーションしようという姿勢だ。「ぼく、今、成績いい子の記録を自分が出したことがないんですよ。それ程速い世界を知らない。だから、子どもたちから意見されて、やりあって、僕たちの持っているノウハウがさらに強化されていく。」その子が、大人と対等に話せるようになったのを見て、あぁ社会でもやっていけるようになってきたな、と喜ぶ。

相手は子どもだ。 「わかりやすい」「笑える」「またここに来たい」 そう思って欲しいから、「おふざけと真面目のギリギリのラインを攻めている。」

大台陸上クラブのメンバー募集チラシ

そんな大台陸上では、合理的な指導のため、早くから動画を活用している。クラブ紹介などをプロモーションビデオ風に編集してYouTubeに投稿し、子どもたちを楽しませる一方、ち密な分析資料としても活かす。スロー撮影や比較撮影、同じ角度での撮影や、複数の角度での撮影など、動画の持つ特性をよく把握して資料としている。また、選手の成長記録として、50mのタイムなどの統計を取り続け、動画ファイルとリンクするなどしている。生まれ月から何か月で何秒を記録しているか、個人の伸びが目に見える形で示される。記録は3000件を越え、立派なデータベースとなった。
※大会での撮影は、盗撮防止など禁止の傾向にあり近年は練習時のみ。

子供達の活躍の場として、大会にも積極的に参加する。競技場でパフォーマンスする大会だけではなく、地方の、アットホームなジョギング大会で地域の観光振興などとタイアップしているようなイベントは逃さず狙う。「今日は勝つことが目的やないで!参加賞をぶん取ることや!なんて冗談言いながら、1位2位3位を取って完全優勝したことも。抽選の参加賞はひとりも当たらなかったですけど(笑)」

大台陸上クラブを土台に、「市町村駅伝に通用する選手を育てる目標」も、当初小学生だった子どもたちが中学生になり、そろそろいけるかもと期待している。マスターズ(社会人以降)も、少しアドバイスさせてもらったら、全国レベルの選手になられた。映像技術の進歩も手伝って、「早く走れるとはどういう状態か」ある程度わかってきた。でも、と野呂さん。

“全国レベル”は目指すべき目標の一つではあるが、クラブのゴールではないようだ。それよりも、「今ゼロの状態の子、まったく遅い人たちをある一定レベルの走りまで連れていくノウハウができたら、すごいことになる」と、目を輝かせる。分析して、工夫して伝えて、結果に活かす、という手法を磨き上げるために参考になったのは、介護士の作るケアプランだそうだ。子どもが、何を望んでいてどうしたいのか、目で見て、時には話を聞いて、考えも無い子には考えることから始めさせてみる。子どもの状態と希望にメニューの方を組み合わせていく。「ある水準まで達したら、勝手に速くなっていくから。」

子どもたちにアドバイスする野呂剛史さん

【未来で「つながる」関係性を意識して】

大台陸上にやってくる小学生の子どもたちには「憧れ」が身近にある。全国大会に行ったような中学生と一緒に鬼ごっこさせる。いろんな垣根をとっぱらって、みんな一緒にやる。

「それが、後々つながってこやんかなぁと。」

この一言に込める思いは深い。野呂さん、陸上クラブを始める前はブレイクダンスの指導もしていた。

ダンスをしていた頃の野呂剛史さん

その中には某有名ダンス&ボーカルグループのメンバーやニューヨークでアーティストとして活躍する中西怜さんなどがいる(ともに大台町出身)。そんな縁あって、クラブのユニフォームは、世界的アーティストとなったRei Nakanishiが作ってくれたオリジナルデザインになっている。このユニフォームは、地元で「小学校の裏制服」と噂されるほど子どもたちが好んで着ているものだ。楽しくやっていた過去のつながりが、時と場所を越えて生きている。

野呂さんは身近な子たちが「ネットでいくらでも情報を手にすることができるゆえのコンプレックス」を抱えている、と感じている。駅伝についても、大人も子どももあきらめていた。田舎でクラブもないんやったら無理だと何度も言われた。スポーツに限らない。都会に憧れて、とりあえず出ていったら何とかなると言いながら、生き残る技術もなく、折れてしまう人たちも見てきた。

だから、大切にしたいのは、クラブで勝つことよりも、「高い水準でも通用する」「具体的な知識や技術」を持った集団になること。そこで育ってもらうことだ。

将来、みんなが陸上選手になるわけじゃない。どんな可能性が花開くかわからないから、むしろ積極的にいろいろな競技をやったらいい、と野呂さん。そのために陸上競技にかかる時間を減らそうとすら思う。それでも「陸上の強み」は、他人との比較ではなく、「自分の結果が正しく出る」ところだ。

計測して、数値を出して、本人のランキングがどこで、去年からどれだけ変化したか。ものすごく具体的で目指しやすい。指導者側も100m16秒で走りたいなら、「1秒間に何歩走って、歩幅は何センチですよ」と具体的に伝えることで、子どもたちも頭に数字を入れて、実際に試し、修正して、結果を出せる。

正しい判断と分析で「高い水準」に必ず手が届く。 そんな経験が、子どもたちに自信を与え、これから先の課題にも太刀打ちできる人を育てることになることを願う。「ここはしょせん田舎だけど、その気になっていいんだよ。」と。

大台陸上クラブの活動風景

そんなわけで野呂さん、今後はつながりを活かしていろんな団体とコラボしたいという。 「運動部活動改革」の中学校の部活の受け皿になりたいとは思っている。他にも「消防の「はしご」に登らせてくれないかなぁ、とか。大会前に同じ美容室でかっこいい髪形にしてぶっちぎってもらいたいな、とか。都会で活躍している仲間たちと対談して子どもたちに聞かせたい、とかね」いろんな人の手を借りて、子どもたちをいい水準に置いてあげたい。そしてクラブと一緒に、いろんな人が育っていったら、いつか自分たちで集まって「面白おかしい、ものすごいプロジェクト」をやってみたい、と本気で思っているのだそうだ。

子どもたちの活動を見守る野呂剛史さん

【取材班のあとがき】

夏の夕方、訪れた大台町役場の1階は、大きな窓が鮮やかな緑のカーテンに覆われていた。野呂さんをカウンター向こうに探すと、グラウンドに立つ姿とはまた違うスマートな物腰で、会議室の一角に案内してくださった。そして「役場の人間なので」と、【大台陸上回顧録】なるものを手渡される。「なんでも書面にしたくなるんです」と。それで、今回はこちらも大いに参考にさせていただいた。取材には、「影の立役者」と呼ばれる木下さんも同席。お二人の地域の子どもたちへの眼差しが特別暖かいものだと、子どもたちが気づくのはいつだろう。「またここに来たい」を育てる大台陸上クラブは、今そこにあるゴールよりも先を見据えて走っている。

大台陸上クラブ
WEB:https://run0life.wordpress.com
YouTube:
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