今回のインタビューは熊内(くもち)にお住まいの浦中 作美(うらなか さくみ)さんです。
道の駅奥伊勢おおだいなどで販売されている宮川特産品、そら豆餡の朴の木だんごを製造している地元有志団体“ばっちゃんず”。
結成されてから12年。作美さんは、高齢化に伴い減っていったメンバーの最後の一人です。
【ばっちゃんずの仕事】
珍しく雪が降りキーンと寒い朝。まだ薄暗い時間に食品加工施設むらびと工房の明かりの灯った作業場を訪れると、ちょうど作業台の上に朴葉を並べ、鮮やかな緑のお団子をひとつひとつ丁寧に包まれているところでした。
ばっちゃんずの商品は3点。そら豆の餡が入ったよもぎ団子を朴葉で包んだ朴の木だんご。柔らかなよもぎのお餅で自家製粒あんを包み、きな粉をまぶした米っこだんご。そして生芋から作るこんにゃく。刺身こんにゃくとしても美味な一品です。
作美さんの動作はゆったりとしているようで、手元は素早く正確。
少し世間話をしながら写真を撮らせてもらっている間にあっという間に次の作業に移られていきます。
「次はお餅をつきます」
ここでつき手のご主人、作美さんの夫である優さんの登場。メンバーひとりになった今、様々な仕事を手伝ってくれる重要な戦力です。
蒸しあがった生地から立ち上る湯気。
臼に入れた生地を杵で抑えながら少し捏ね、いよいよ合いの手を入れてぺったんぺったんと小気味よい音。杵が下ろされる度に飛んでくる手水のしぶき。
やがてよもぎのペーストが混ざり合った生地は滑らかで艶々と輝きます。
あんこ玉を包んで成形。
作美さんは簡単そうに次々と手早く丸めていかれますが、繊細な力加減は熟練の技。美しく丸まったおだんごは流れ作業で優さんがきなこをまぶしていきます。その手つきの優しいこと。
団子のパッケージングが終わると、最後に水に晒してあったこんにゃくを袋詰め。優さんはそのまま納品に出ていかれました。
作美さんの手は止まることなく、翌日分の仕込みが始まります。
【熊内のそら豆のおだんごを残したい】
ばっちゃんずの始まりを伺うと、作美さんが発起人ではないそうで。
平成24年、当時、宮川地区の貴重な食事処であり、地物やお土産物を扱うもみじ館という施設を同じ地区の方が営まれることになり、そこで出品するものを何か作ってくれないかと熊内婦人会に打診がありました。
田植えが終わる野上りの時期に、家庭でたくさんお団子作って近所に配る風習があった熊内。それまで婦人会では地元のお祭りなどイベントの折に寄りあって、お団子を作ったり、味ご飯を炊いたりしていたそうです。婦人会として受けるのは困難であるとの結論になりましたが、元気なおばあちゃんたちは、何かやりたい、力になりたいという気持ちが強く、婦人会内の有志で引き受けることを決断。
ばっちゃんずの誕生でした。
「地域活性化みたいなことまで考えてなかったけど…でも何年も熊内ではそら豆の餡の朴の木だんごを作ってたから、それを残していきたい気持ちがあったんやろなぁ」
活動している上で苦労していることを尋ねても、
「苦労とは思わんけど…好きでやっとることやでなぁ」と時間と労力は生活に大きく負担がかかっているのは明白なのに淡々とおっしゃいます。
「えらい*と言えばえらい。買えば簡単に手に入るけど。」なるべく地域で生産したものを使用し安心安全なものを作りたい。
*疲れる、しんどいの意
昔はみんなそら豆や小豆を家庭で作っていて、朴の木ですら葉っぱを採るために敷地の片隅に植えていたそうです。
休耕田を利用したいからと作美さんの所でも毎年豆を植えてみえますが、気候や美味しいものの収穫時期をよく知っている猿たちとの攻防により、量を確保できない年も。ご近所さんも高齢化が進み、こんにゃくやそら豆を作る人も少なくなってきました。
原料の収穫時期は決まっていて、3月4月は田んぼの畔で春先の柔らかなよもぎを摘み、5月6月は地域の方に提供頂いた朴葉を採取。それらを選別し、洗い、形を整えたり、下ごしらえをしたり、普段の早朝仕事に加えてこの1年分の仕込みが入ります。
よもぎをちぎって集めるくらいなら保育園のこども達が楽しんでやれそうですねと軽く口にすると、
「やっとったよ。昔保育園で働いてたとき」
作美さんはかつて園長先生だったのです。
【ここで生まれてここで働いてきた】
宮川地区で生まれ育った作美さん。早く社会人になりたくて進学を勧める父に反発し、名古屋で就職しようとしていました。しかしそれも反対され、旧宮川村役場の採用試験を受けることになり、無事(?)合格して働き始めます。
「役場へ就職したけど仕事がおもしろくなかった。で、嫌やなぁ、こんな仕事何年も続けられやんわと思いながら…そいで、…休んだ(笑)」
きっぱり、さっぱりと出社拒否の時のことを教えてくれました。その後、保育士の資格を取り、人員不足だった保育園へ異動となります。
「事務職よりはぜんっぜん面白かった!」
天気が良ければすぐに園外へ出かけるスタイル。自然豊かな大台町の旧宮川地区の奥の方、大杉や領内地区は特に周りは山ばかり。「こどもを遊ばせるんに最高やった」と振り返ります。しかしどんどん少子化が進み、いくつもあった保育園は統合されていきます。園長だった作美さんの次の舞台は特別養護老人ホーム“やまびこ荘”でした。
まったく新しい世界でしたが、腰掛施設長になるのは皆に迷惑がかかるからと定年までの10年間勤め上げることを希望され、いちから勉強を始められました。
子どもたちは夕方には家に帰りますが、そこは24時間誰かが看ていないといけない施設。 「当直もあったし…時間が経つのがものすごい早かった。介護の仕事はほんとにプロの仕事。車椅子ひとつ押すんでもな。自分にできることってほんとにちょっとしかなくて。本当に勉強になったな。
新しい職場で忙しく日々をこなしながら、現場の環境改善のために懸命に取り組まれます。 週一で通信を発行しその週の連絡事項とともに自分の考えや気づきを職員の皆さんに共有したり、正職員さんが退職される度に臨時職員さんを2名採用してもらい、人員配置を充実させていったりと地道に改革を行っていきました。
【ひとりで黙々と作業するのも好き】
活発なイメージの作美さんですが、ご自宅の玄関や居間に飾られていたのはご自身が手掛けるパッチワークのタペストリーでした。
時間、根気のいる手仕事です。
息子さんが受験勉強の頃、長い夜の作業として始められましたが、自己流に限界を感じて高速道路のない時代に津市のパッチワーク教室まで通い始め、35年経つ現在でも通っているそうです。
作品はタペストリーやバッグ、ベッドカバーのような大きなものまで、山のように積んであるそう。
「やまびこ荘の玄関へ作品を飾りに行くんさ。四季折々の。2月になったら春っぽいのかけようかな」
子ども達が巣立った今、「その辺りに針を落としていても危なくないし、そこら中に布広げとる」と制作は続いています。近所のお年寄りのパッチワーク教室にも教えに出向いていて、90代のおばあちゃんが一番熱心に通ってくれているそうです。
身体を動かすのもお好きな作美さん。ママさんバレーやスポーツ少年団(女子バレー)のコーチなどスポーツにも熱心に取り組まれてきました。
ママさんバレーは夜間の練習なので子供を寝かしつけてから出かけていたとか。 「19時半くらいから子供の背中をたたいてたたいて(笑) 寝た!行こう!寝てない~!みたいな」
スポーツ少年団は自分の子どもも参加しているし、ボール拾いだけでもと手伝いはじめ、子どもの数が減って解散となるまで20年近く続けられたそうです。
今は優さんと共に週に一度卓球クラブに参加しています。そこも80歳の方が何名かみえる元気なお年寄りの集まり。ライングループの名はその名も“お達者クラブ”です。
【続けること】
一度始めたら最後までやり切りたい。
「途中でよう止めんのさ」と優さん。
“ばっちゃんず”のメンバーが減り続けて最後一人になる時に辞めなかった作美さん。 お話を伺っていると強い想いを感じます。
労力と収益を考えるととても若い人には勧められない活動ですが、自分がばっちゃんずのメンバーになった頃のように元気で継いでくれる人はいないかと諦め半分微かな希望を抱いています。
「身体が続く内は細々と続けてって…後継者が現れたら御の字です」