Vol.63 南 朋美 さん

Vol.63 南 朋美 さん

今回紹介するのは、大台町下真手(しもまて)出身で、結婚後、天ケ瀬(あまがせ)に住んでいる南 朋美(みなみ ともみ)さんこと“ともせんせい”です。
保育士として地域の子どもたちを見守りながら、5人の子育てを通して命と向き合い歩んできた、ともせんせい。
「さよなら」ではなく、「また明日な」――。
涙も笑顔も抱きしめながら生きてきた、“つながり”にあふれる人生を伺いました。

【自然の中を駆け回った幼少期】

「門野朋美ちゃん、家に帰ってください」
友達と二人、レンゲ畑で時間を忘れて夢中になってレンゲを摘んでいると、知らないうちに日が暮れ始め、真上にあった旧宮川村の防災行政無線から自分たちの名前が呼び出され――。
そんな経験が忘れられないと笑う、ともせんせい。
外遊びが大好きで、“お転婆”という言葉がぴったりだった幼少期。宮川ダムができる前は、夏になると宮川で泳ぎ、周りの大人たちが「一番岩、二番岩、三番岩」と呼ばれる岩の上から、子どもたちを川へ放り投げて遊ばせてくれたそうです。

「今思うと、本当に自然の中で育ててもらったな」
夏休みは、小学校のプールが15時に終わると、大台町赤滝(あかたき)まで歩き、さらに夕方まで泳ぐ毎日。真っ黒に日焼けしながら、元気いっぱい育っていきました。

【祖母から受け継いだ、大切な教え】

幼い頃、ともせんせいには、いつも一緒にいるいとこがいました。
「“鍋取りやな”って、よう言われました。鍋つかみって、両方そろわんと使えやん。それくらい、いつも二人一緒やったんです」
共働きだった両親に代わり、母方の祖母が面倒を見てくれていたそうです。
「“ただいま”って帰る場所が、ばあちゃん家やった」
夏のおやつはヤクルト。冬は手作りの甘酒。今でも心に残る、何気ない日常の思い出です。
祖母から教わった、ズボンの膝が破れた時の継ぎ当ての方法。ともせんせいは今もそのやり方で、子どもたちや孫たちの服を繕っています。

そして、今でも大切にしている二つの言葉。
「“宵の苦しみ、朝の助かり”。夜に頑張って準備しておけば、朝が楽になる」
「“取る勘弁より使わね勘弁”。稼ぐことも大事やけど、無駄遣いせんことの方が大事やって」
昔ながらの暮らしの知恵と、人を思いやる心。祖母から受け取った教えは、今もともせんせいの人生を支え、子どもたちへと受け継がれています。

大台町 宮川の風景

【家族に支えられて歩んだ人生】

ともせんせいの両親は、下真手にある株式会社三重額縁から分社化し、額縁の一部を製作する仕事を営んでいました。
朝早くから夜遅くまで働きづめの日々。
幼い頃を振り返り、「寂しかったな」と話します。
「中学生の頃は、朝に仕事を手伝ってから学校へ行っとった」
当時の子どもたちは、田植えや家の手伝いが当たり前。ともせんせいも、厳しい父親の背中を見ながら育ちました。

その父親は数年前に他界。最期はともせんせい自身が看取り、「理想通りのピンピンコロリ やった。悔いなく見送れた」と語ります。
一方、母親は現在施設で暮らしており、一時は介護のために仕事を離れた時期がありました。
「自分もちょっと体調を崩してしまって。兄と相談して、母を預ける決断をしました」
人生の節目には、いつも家族の存在があります。

【青春を捧げたバレーボール】

中学・高校時代は、バレーボール一色。ポジションはセッターでした。
中学では、同級生だけで15人いる中でキャプテンを務め、チームの中心として練習に打ち込みました。
「テレビに出てくるバレー選手になりたいって、本気で思っとったな」
地元の宮川高校へ進学したのも、「絶対にバレーを続ける」と決めていたからでした。

「あの頃の仲間とは、今でもつながっとるんです」
昨年は、バレー部顧問だった恩師の米寿祝いを開き、自ら幹事も務めました。
「青春はザ・バレーやったな」
そう語る笑顔からは、仲間との深い絆が今も続いていることが伝わってきました。

【“天職”との出会い】

バレーを引退した高校3年生。卒業後の進路は、ギリギリまで決まっていませんでした。
「真田広之さんのお嫁さんになるって言うとった(笑)」
そんなともせんせいに、母親が勧めたのが“保母さん”という道でした。
幼い頃から中学時代まで習っていたピアノ、そして子どもが好きな性格。母の言葉に背中を押され、松阪女子短期大学保育科へ進学します。

そして迎えた、初めての保育実習の日。
「もう、ドカーンって! 稲妻が走ったんです。子どもって、こんなに可愛いんやって」
その瞬間、ともせんせいは“天職”に出会いました。
「こんな仕事があるんや、絶対保育士になるって決めた」
そこから夢中で学び、保育士になる夢を叶えます。

保育士として働き始めた当時、旧宮川村には5つの保育園がありました。
大杉、領内、栗谷、荻原、真手。
「その頃は、子どもの数も本当に多かった」
真手保育園だけでも園児は50人。現在、旧宮川村で唯一となった宮川保育園の園児数は25人ほどだといいます。時代の大きな変化を感じます。
ともせんせい自身も、それぞれの地区の保育園で働きながら、多くの地域の人たちと出会い、つながりを育んできました。

南 朋美(みなみ ともみ)さん

【子育てと、人生を支えてくれた人たち】

26歳で結婚したともせんせいのお相手は、なんとお兄さんの同級生。小さい頃から知っている、“兄の友達”でした。
「交際ゼロ日で、“私、この人と結婚するわ”って(笑)」
お兄さんや周りの人からも、「あんな良い人おらへんに、めっちゃ真面目やに」とすすめられ、「結婚するんやったら、こんなに条件にかなった人おらんかな」と結婚を決意したといいます。
「40年近く一緒におるけど、一回も大きな声を出してるところを見たことがないんです。仏さんみたいな人」
ともせんせいの表情から、穏やかで温かい夫婦関係が伝わってきました。

現在は5人の子どもと12人の孫に囲まれ、にぎやかな毎日。
「今が人生で一番ええ時間かなって思えるな」
その言葉には、家族とともに歩んできた人生の温もりがにじんでいました。

結婚、出産を経て、ともせんせいの人生は大きく変わっていきます。
2人目の子どもが生まれた頃、子育てを支えてくれていた母の負担を思い、保育士の仕事を辞めると決断。
その後、5人の子どもを育てる日々が始まりました。
末っ子・洋次郎さんには障がいがあり、「この子を育てるために、自分が頑張らな」と必死だったと振り返ります。
「この子が笑わんだら、私も笑わへん。今の自分ではなかったなぁ」
自分のことを後回しにし続け、気づけば心まで沈み込んでいたといいます。
そんなともせんせいを救ってくれたのが、ママさんバレーで出会った友人でした。
「そんなんじゃあかんって、旅行やランチに連れ出してくれた」
少しずつ外へ出るようになり、再び笑えるようになっていきました 。

園児たちの作品

【母として、苦しかった時間】

洋次郎さんが、生後間もない頃のこと。
「本当によく寝る子やったんです」
翌年の夏、突然目の動きがおかしくなり、痙攣が始まりました。
口から泡を吹き、唇が真っ青になる我が子を抱え、必死で病院へ向かったといいます。

当初は“小児てんかん”と診断され、薬による治療が始まりました。
けれど症状は良くならず、発作は1日に20回近く起こるように。
「なんで治らんのやろって、毎日泣いとった」
原因が分からないまま、不安だけが募っていきました。
その後、病院を変え、国立三重病院で検査を受けた際、ようやく本当の病名が判明します。
「特発性乳児低血糖症」でした。
「“てんかんと違いますよ”って言われた時、力が抜けました。“やっぱり”って」
血糖値は命に関わるほど低い状態だったといいます。
原因が分かったことで、必要な対応も見えてきました。
常に補食を持ち歩き、保育園でも冷蔵庫にチョコレートを用意させてもらうなど、周囲の支えを受けながら生活を続けていきました。

自分自身を追い込んでしまうほど、苦しかったあの頃。
ともせんせいを救ったのは、小学校から帰宅した長女の「ただいま」の声でした。
はっと我に返り、「そうや、私はこの子らのお母ちゃんや!」
その瞬間、自分が踏ん張らなければならない理由を、改めて感じた――当時を思い出し、涙を流すともせんせい。
「そこからかな。少しずつ強くなれたんは」

今では、同じように子どもの病気で悩む保護者に、こんな言葉をかけられるようになりました。
「原因が分かっとるなら大丈夫。熱が下がれば治るって、自信を持って言える」
苦しかった経験は、人の痛みに寄り添える強さへと変わっていました。

【“命の重み”を教えてくれた存在】

取材の途中、ともせんせいは一冊のノートを見せてくれました。
「これ、誰にも見せたことないんやけど」
そこには、平成8年の日付とともに、
・発作の回数
・睡眠時間
・食べたもの
・体調の変化
などが、細かく記録されていました。
「病院の先生に見てもらうために、毎日欠かさず書いとったんです」
わが子の命を守るため、必死だった日々。その記録は、今も大切に保管されています。

「これがあったから、今の自分がおるんかな」
そう静かに話すともせんせい。
「あの経験があったから、小さいことでは動じやんようになった。命って、本当に大事やって教えてもらった」

一方で、当時は上の4人の子どもたちにも、たくさん我慢をさせてしまったと振り返ります。
現在、洋次郎さんは31歳。
「手のかかる大きい子やけど、障害があるとは思ってへんな。普通に“大きい子がおる”って感じ」
一緒に野球観戦へ行き、旅行も楽しむ。そんな日常を、ともせんせいは自然体で語ります。

そして、その経験は家族にも大きな影響を与えました。
「上の子ら、みんな医療関係へ進んでくれて」
病気と向き合った時間が、家族それぞれの人生にもつながっていったのです。

大台町 宮川保育園

【一番の主治医は、お母さん】

洋次郎さんの子育ては、成長とともに新たな壁の連続でもありました。
小学校入学前には、教育委員会から津市にある養護学校をすすめられたといいます。
実際に保育園で過ごす様子を見てもらうと、
「なんや、歩けるやん」
と言われ、ともせんせいは大きな衝撃を受けたそうです。
「資料だけで判断されとったんかなって、ショックやった」
学校側との話し合いが続く中、当時の校長先生が自ら三重病院まで足を運び、主治医へ相談してくれました。
「校長先生が、『保護者さんがね、お兄ちゃんお姉ちゃんと一緒の学校で学ばせたいっていうので、洋次郎君どうですか?』と聞いてくれたようで、主治医の先生が『一番の主治医はお母さんです。お母さんがついとるなら大丈夫』って言ってくれたんです」
その後、校長先生はともせんせいの職場まで来て、
「洋次郎君、小学校入学できるよ」と直接伝えてくれました。
「もう職場でわんわん泣いた。感謝しかない」

地域の学校で学び始めた洋次郎さん。
しかし、その後も病気との闘いは続きました。
小学校1年生の時には、「真珠腫性中耳炎」を発症。命にも関わる病気で、日本でも手術できる病院が限られており、やっと探してもらった奈良県の病院で即入院し、手術を受けることになりました。
「5回再発して、高校3年まで手術した」
長い治療の末、右耳の聴力は失われました。
さらに近年は、幼い頃の低血糖症とも関係する若年性糖尿病も発症。
現在も通院と服薬を続けています。
「病院とは切っても切れやん人生やな」
ともせんせいの周りには、いつも支えてくれる人たちがいました。
夫、親戚、友人、そして兄姉たち。
医療関係へ進んだ子どもたちは、食事や健康管理について多くの知識を与えてくれているといいます。
「みんな、本当に大事に思ってくれとる」
その言葉には、長い年月をかけて築いてきた“家族の絆”がにじんでいました。

【生きとってくれてありがとう】

現在、洋次郎さんは、ともせんせいの実のお兄さんが代表を務めている、大台町の天然水「森の番人」を製造・販売している「有限会社森と水を守る会」で働いています。
高校卒業後から、毎日自転車で通勤を続けています。
「今では、“洋次郎に聞いたら何でも分かる”って言われるくらいになった」
と笑顔を見せるともせんせい。
「自分で働いて、お金を稼げる子になってほしい」
というかつての夫婦の願いは、今、しっかり形になっています。
「今は本当に幸せです」
毎朝、自転車で出勤していく息子の背中を見送りながら、ともせんせいは心の中で、必ず同じ言葉を投げかけます。
「生きとってくれてありがとう。今日も元気で帰ってくるんやに」
その「いってらっしゃい」には、長い年月の想いが込められています。

昨年は、友人たちとの北海道旅行に、洋次郎さんも一緒に参加しました。
当初は、ともせんせい自身も連れて行くことを考えていなかったといいます。
「主人に、“洋次郎ほっといて行くんか?”って言われて。そこで初めて、“あ、この子、私のご飯しか食べへんな”って気づいたんです」
友人たちに旅行を断ろうとすると、
「洋次郎くんも連れてきたらええやん」
と、すぐ声をかけてくれました。
「いやいや、無理やと思った。でも本人に聞いたら、“行く”って」
そうして実現した3泊4日の北海道旅行。
飛行機の手続きや一人での行動にも挑戦し、友人たちにも見守られながら過ごした時間は、洋次郎さんにとって大きな自信につながりました。
「“自分でできた”っていう自信がついたんやと思う。今まで“無理や”と思っとったことが、“できる”に変わった、大きな一歩やった」

その人生経験は、保育士としての原点にもつながっています。
就職試験の作文には、
「口だけではなく、子どもと一緒に泥んこになって遊べる保育士になりたい」
と書いたそうです。
「木登りも、虫取りも、泥遊びも、子どもと一緒になってやった」
時には虫取りをしていて木から落ちて、園長先生が飛んできたこともあったと、笑いながら振り返ります。
「昔はできたんやけどな。今は制約も多いで」
それでも、“子どもと本気で向き合いたい”という想いは、今も変わっていません。

【子どもたちが、私を支えてくれた】

保育士として働く中で、ともせんせいは“子どもと一緒に生きる”ことを何より大切にしてきました。
クラス担任をしていた頃は、毎日のように子どもたちと散歩へ出かけたそうです。
田んぼのあぜ道に並んで座り、金平糖を一つずつ口に淹れる。
「今日は何色?」「明日は何色かな?」
そんな会話をしながら、空を見上げ、鳥を数える。
「国語も算数も理科も社会も、外に出たら全部学べるんさ」
自然の中で遊び、感じることを大切にしてきました。

そして、子どもたちは保育園を卒園したあともずっと、ともせんせいのもとへ集まってきたといいます。
「今日のご飯なん?」
気づけば毎日のように家へ来て、床で寝ている子もいました。
「朝起きたら、知らん子の頭蹴っとったこともある(笑)あんたおったん?って」

我が子5人と、地域の子どもたち。
まるで本当の兄弟のように育っていきました。
大人になった今も交流は続いています。
「“おかやん”って呼んでくれるんです」
母の日にプレゼントを持ってきたり、結婚や子どもが生まれたと報告に来たり、「よくしてくれて」とお盆やお正月に必ずお礼に来る教え子たち。
「保育園にいっぱい先生おたけどな、ともせんせいが一番好きやった」

そんな子どもたちの存在が、ともせんせい自身を支えてくれていました。
「洋次郎のことで一番大変やった時期も、あの子らがおったから乗り越えられた」
入院前には励まし会を開いてくれて、奈良の病院までお見舞いに来てくれた。
「ほんまに癒やしやった」

現在の三瀬谷小学校の教頭先生は、ともせんせいとの思い出を振り返ります。
「プールでおんぶしながら『浦島太郎やよー!』って泳いでくれたのを、小学校の教諭になってやってみたん。そしたら沈んでいってさ。ともせんせい、なんであの頃浮いとったん?」
宮川小学校のともせんせいのお孫さんの担任の先生も、かつての教え子です。
「雑巾しぼりで思いっきり絞っても、ともせんせいにチェックしてもらうと“はい80点、はい90点”って。小学校で担任持って、掃除する時に子供らにやってみたらさ、30点、40点の子らばっかり。そういうことも保育園の時に経験させてもらったよなって、先生ありがとう 」
保育園で過ごした時間が、大人になってからも残り続けている。
「長く続けとってよかったなって思う」
そう話すともせんせい。
命と向き合い続けた母としての日々も、子どもたちと全力で笑い合った保育士としての日々も、すべてが今につながっています。
「保育園は、命を預かっとる場所やけど、私にとっては“癒しの場”なん」

南 朋美(みなみ ともみ)さん

【「また明日な」が、つながっていく】

洋次郎さんが保育園の年中の頃、ともせんせいは仕事に復帰します。
当時は病気のこともあり、正職員として働くことは難しいと感じていました。
まずは社会福祉協議会で、身体障害者デイサービスの仕事を手伝うことから始まり、その後、介護施設でも働きましたが、
「やっぱり保育園に戻りたかった」
その想いは、ずっと消えなかったといいます。

再び保育の現場へ戻ったともせんせい。しかし今度は、腰の病気でドクターストップがかかり、一度は退職も経験しました。
それでも、“子どもたちと関わる縁”は途切れませんでした。
三瀬谷認定こども園で、障害のある子どもの加配担当として、5年間寄り添い続けました。
「私の人生の中でも、本当に頑張った5年間。人生の転機とも言える」
一対一で向き合う日々。
子どもの成長だけでなく、保護者との関係にも変化が生まれました。
「“先生と出会わんだら人生なかった”って、お母さんが言ってくれて」
歩けるようになり、周囲とのコミュニケーションも増えていき、ともせんせいは、
「いつまでも私がおったら、甘えてしまう」
と考え、小学校3年生で離れることを決意し、他の先生へ1年かけて引き継ぎました。
「つなげていくことが大事やからね」

その後、宮川保育園から再び声がかかり、現在は延長保育を中心に、子どもたちと関わり続けています。
「保育園大好き。やっぱり子どもが好きなんやな」

最近、特に嬉しかった出来事があるそうです。
朝、保護者と離れるのが寂しくて泣いてしまう子どもたち。ともせんせいは、帰るときにいつもこう声をかけています。
「“さよなら”じゃなくて、“また明日な”って」
“別れ”ではなく、“続き”として伝えたい。
そんな言葉を積み重ねるうちに、子どもたちの方から、
「先生、また明日な!」「また明日、折り紙の続きしような」
と言って帰るようになりました。
「もう嬉しくて。“聞いた?今の聞いた?”って、他の先生に言うん(笑)」
そう話すともせんせいは、まるで子どものように笑います。
その表情には、子どもたちと向き合い続けてきた人生の喜びが、あふれていました。
「これなんさな。私が目指してた保育は」

ともせんせいのパウンドケーキ

【“ともせんせいのパウンドケーキ”】

2025年6月、大台町上菅(かみすが)にオープンしたベーグルショップ「はなもぐベーグル」を営む、おおだいびとVOL.58の矢川はなのさんは、ともせんせいの三女です。
月2回の営業日、色とりどりのベーグルと一緒に、「ともせんせいのパウンドケーキ」も店頭に並びます。
「昔は近くにケーキ屋さんもなくてな。子どもが5人おったで、自分でおやつを作っとったん」
ともせんせいがパウンドケーキを始めたのは、子育て真っ最中の頃でした。
自己流で焼き続けたパウンドケーキ。
子どもたちが成長し、部活動の合宿に持っていったり、教え子たちに振舞ったりすると、
「これ売れるよ!」
と、よく言われたそうです。

「いつか、“おばちゃんの店”みたいなんできたらええなって思っとった」
そんな夢を、娘のはなのさんが形にしました。
「突然、“ベーグル屋やるで。お母さんのパウンドケーキも出すよ”って。“お母さんのためにもするんやでな。お母さんのパウンドケーキは世界一おいしいもん”って言ってくれてな」
レシピは、あってないようなもの。
「その時によって味違うん(笑)」
そう笑いますが、営業日以外にも「手土産にしたい」と注文が入るほどの人気ぶりです。

【にぎやかな“今”が、いちばん幸せ】

ともせんせいの家には、いつも家族が集まってきます。
5人の子どもたち全員が大台町で暮らしているため、土日は孫たちがやってくる“保育園状態”。毎日にぎやかです。
「5月5日は焼肉大会。米2升3合炊いて、ひたすら握って出して。肉は5キロ買うんやよ(笑)」
年末は、恒例の餅つき。
子どもや孫たちが集まり、一日中笑い声が絶えません。
「孫ができて、また輪が広がったな」

かつて、精いっぱいだった日々。
「昔、子どもらには辛抱させたでな。今はできることは何でもしたい」
娘たちから頼まれたオムツやミルクを買って届けるのは、ご主人の役目。
「今日は“オムツLサイズ2つ、ビッグ1つ”って注文入っとって、薬局で買って、子どもらの家に配って回っとる(笑)
ともせんせいは、穏やかな笑顔でこう話してくれました。
「今が、人生で一番幸せやなって思う」

【「生きとってよかった」と思える今】

ともせんせいに、大台町の魅力を尋ねると、まず返ってきたのは「自然」という言葉でした。
「山登りでもな、どこをつかんだらええか、子どもは自然の中で覚えていくん」
虫や鳥、草花。
自然の中には、子どもたちが学べることがたくさんあります。

そして、もう一つは「人とのつながり」。
「どこ行っても、みんな知り合い。あんたとこの娘やったんか、孫やったんかって、みんながつなげてくれる」
長年、保育士として地域の子どもたちと関わってきたともせんせいだからこそ感じる、大台町の温かさです。

そして少し考えたあと、こう続けました。
「一番よかったんは、旦那と結婚できたことかな」
5人の子どもと、12人の孫たち。
にぎやかな毎日の中で、ともせんせいは何気ない毎日の尊さを噛みしめながら暮らしています。
「“幸せ”って一言では言い表せやん、“いい時間”なんさ」

病気や介護、子育てに追われ、
「もう死んだほうがええんかな」と思った時期もありました。
それでも、今こうして振り返ると、心から思うのだそうです。
「あの時、洋次郎と死なんでよかった」
幼い頃、おばあちゃんがよく言っていた言葉があります。

「死んだようなことはねえ」

――死ぬことが、一番つらいこと。
それまでは、なんとかなる。

その言葉を胸に、ともせんせいは歩いてきました。
子どもたちへ、毎日かけ続けている言葉。
「また明日な」
ともせんせいには、人を前向きにする優しさがあります。
生きることは、苦しいことばかりじゃない。
誰かと笑って、ご飯を食べて、「生きとってよかった」と心から思える瞬間が、きっとある。
ともせんせいの優しい笑顔と、紡がれる言葉の一つひとつが、そんな大切なことを教えてくれているようでした。

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