今回紹介するのは、大台町佐原(さわら)に住む中西 充絵(なかにし みつえ)さんです。大台町へ嫁ぎ、20年弱。義母の介護などをきっかけに、夢中になれる公文書写に出会い、教室を開きました。大台町の人の温かさに助けられたという、充絵さんの物語とは?
【伊賀に生まれ、大阪で過ごした学生時代】
三重県伊賀市の中心部で生まれ育った充絵さん。大阪の高校へ通い、大学時代は大阪で一人暮らしを始めました。当時ご存命だったお父様から、「大学生活の中で、好きなことを見つけて。自立して食べていく力を身につけるのは、これからの時代、男女問わず必要」と言われていたため、就職に向けて“好きなこと探し”を意識しながら日々を過ごしていました。
充絵さんは当初、三重に帰ってくるつもりはなかったそうです。就職氷河期の真っ最中で、女性は事務職が当たり前、実家から職場へ通える人しか採用しないという時代。就職活動を通して、社会で生きていくには女性にはまだまだ厳しいと思い知らされました。
経済学部で勉強していた充絵さんは、一人暮らしの中で、料理が好きになりました。「流通関係にも興味あり、人とのコミュニケーションも好き。スーパーによく買い物へ行くし、小売業界を目指そうと色々な企業を受け、当時松阪市に本社があった大手スーパーマーケットへの入社が決まりました。都会も良かったけれど、三重は落ち着く」。大阪から松阪市へ住居を移し、Uターンする形で三重県での社会人生活が始まりました。

【結婚を機に大台町へ】
社会人3年目、同じ会社に勤めていたご主人と結婚し、2006年に寿退職。ご主人の実家である大台町佐原で新婚生活がスタートしました。
幸せな暮らしから一変、充絵さんにとって、とても辛い出来事が起こりました。お腹に授かった赤ちゃんとの別れ…。悲しみに暮れ、塞ぎ込んでいた充絵さんに、中西家の親戚から「何か夢中になれるものを探したら?」と心配の声がかけられました。
同時期、ご主人の母親が脳梗塞になり、介護が始まりました。「自分の時間が無くなって、毎日バタバタしていました」と、充絵さんは27歳当時を振り返ります。中西家に優しく迎え入れてくれた義理のお母様は、脳梗塞の後遺症で人格が変わってしまい、どう向き合っていいのか分からない…。
このままではいけないと、夢中になれるものをと提案してくれた親戚に相談し、充絵さんは道を切り開きます。

【苦手から好きへ、書写との出会い】
「会社勤めしていた時、字が上手くなくてコンプレックスだったんです。提出した書類を見て、会社の人から『もうちょっと読めるように書きな』と言われるくらい」。意外にも、充絵さんはもともと、字を書くことが得意ではなかったようです。
「近くに教室がなかったので、親戚に紹介してもらい、愛知県に月1回習いに行きました。行けないときは郵送で。没頭していくうちに、字はみるみる変わっていきました」。2007年から公文書写を習い始めた充絵さん。字を書くことに集中することで、悩んでいたことは徐々に解決していったといいます。
「まさか先生になるとは思っていなかった。義母の介護は落ち着いておらず、愛知県の先生に 『自分以外の人にだけ目を向けていると、人生がしんどくなるよ。自分が好きな仕事を持つと、全部が楽しくなる』と教わり、価値観が変わりました」。充絵さんが大台町で公文書写の教室を開くことになったきっかけは、愛知県で教わっていた公文書写の先生が背中を押してくれたことでした。
「愛知まで習いに来るということは、近くに教室がないんでしょう?あなたが教室をやることが役目だと思うよ」という先生の言葉が、書写力審査の試験に挑戦する力となりました。

【書写教室のスタートと大台町の人の温かさ】
習い始めて3年が経った2010年に、充絵さんは書写の教室を開きました。
「全国で、一緒に始めた先生との横のつながりができ、今でも『私もあんなことがあった』と励まし合うことができています。また、公文書写の生徒さんとも良いご縁ばかりで、反対に私が教わることが多いくらい」と充絵さん。教室に通う生徒は、大人と子どもが半々だそうです。遠方で、通信学習する生徒もいるのだとか。
「この仕事があったから様々なことを乗り越えられたし、大台町は良い人ばかり。ご近所さんからの挨拶などちょっとした一言、『これ食べる?』という気遣いに救われたことが多くありました。義母が病院に入っていたときも来てくれて、『自分の時間作りなよ』と周りに聞こえないようにそっと言ってくれたり。血がつながっていないのに」。
周囲の人に助けられている、良縁に恵まれている…。ごく自然に、充絵さんはその言葉を何度も口にします。
「義母の精神状態が悪化していき、昼夜問わず徘徊したり、妄想があった。お金を取られたとか。公文書写の生徒さんにケアマネージャーの方がいてアドバイスをもらったり、デイサービスの施設の人が親身になって話を聞いてくれました。他の地域の友人と話しても、そこまで親切にはしてくれない。大台町だからこそだと思います。4年前に、グループホームおおだいに入り、義母も元気を取り戻して幸せに暮らしています」。
施設に入ってからは、夜に寝られるようになったという充絵さん。お義母様が徘徊してどこに行ったか分からなくなることもあったそうで、常に心配が付きまとっていたのでしょう。ようやく落ち着いた生活ができるようになったと、最近は趣味の幅を広げています。

【古くから伝わる日本文化が好き】
伊賀の旧市内の街の中で育った充絵さん。古いものを大切にする文化のある伊賀市。明治生まれの充絵さんの曾祖母も、お茶とお花をされていたおばあ様も、普段から着物で生活されていました。伊賀の祭りでは、子どもの頃から着物を着せてもらって楽しんだといいます。「和のものが好きな環境で育った」という充絵さんは、12月から3月の間、着物で仕事するそうです。
「義母が日本舞踊の先生でした。義母から普段の着物の着付けを教わり、30代半ばから自分に合うライフスタイルとして冬から春にかけて着物で過ごしています」。教室には季節ごとに和のものを取り入れて、生徒にも季節感を味わってもらい、一緒に楽しんでいるといいます。

【何もない大台町で気づかされたこと】
「20代の頃は、人付き合いの仕方に悩んでいました。大台町に来てからはそれがない。本音で話ができる人が多くいます。距離感がちょうど良い。車の運転も穏やかだし、人が暮らすスピードもゆっくり」。
充絵さんが大台町へ嫁いできた当初の率直な感想は、「何もない。やっていけるのかな?」だったそうです。しかし、しばらく生活していると、「何でも揃っている」という気づきがありました。「まず、星と月が眩しいことを発見して驚きました。大阪は何でもすぐに買えるけれど、季節を感じることはなかった。今、何の食べ物が旬なのか、何の花が咲いている季節なのか分からなかった」。
義理のお母様が施設に入った頃から、親戚の持つ敷地である大台町下三瀬(しもみせ)の畑を借りて、ご主人と二人で家庭菜園を始めたそうです。大根、にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、かぼちゃ、オクラ、スイカなど。自家製で味噌作りもしています。
車で移動する距離に畑を持つ人も少なくない大台町。
手探り状態で初挑戦した畑にも、ご近所さんが自分の畑を見に行った帰りについでにちらっと見て、アドバイスをくれる。「じゃがいも植える時期やよ」「畑に追肥した方がいいよ」。充絵さんが畑に行くと、近くで一人暮らししている方が話しに来てくれるそうで、知識を伝授することを生きがいにしてくださっているのかもしれませんね。

【大台町への移住のリアル】
仕事もプライベートも充実した生活を送っている充絵さんに、大台町で暮らすデメリットも聞いてみました。
「夜は真っ暗で怖いです。動物にも遭遇する。元気なうちはいいけれど、車がないと不便ですね。バスの本数も少ないです。自宅からバス停まで歩くのにも距離があるという声をよく聞きます。ほかには、病院の専門家が少ない。緊急時は松阪へ行くのに佐原から40~50分かかります」。
伊賀出身の充絵さんは、伊賀の方が暑さも寒さも厳しいと教えてくれました。
「大台町は一年通して住みやすい気候。田舎暮らしへの憧れが強い方には、自然が豊かでぴったりですよ」。

たまには都会の空気を吸いに行きたくなるという充絵さん。
全国への旅行や御朱印を集めながらのお寺巡りも趣味です。旅行の話は、ご近所さんとも共有されるそう。
「80代の方との情報交換が楽しい。都会にいたら、違う年代の人と普段から盛り上がることなんてないですよね」。
嬉しそうに話す笑顔を見るだけで、豊かな暮らしを想像できます。大台町の人は温かい。移り住んだ人にも、その温かさが受け継がれている気がします。
photo @yuu_field.5427
